奇跡のコースとの出会い…(自己紹介も兼ねて)
人生というものは自分で構築していかなければならないもの…だから、常に目標を掲げ、ひとつひとつクリアしていくことが大事なのだ!ということを、わたしはずーっと信じてきました。
しかし、それが苦しかったのだ…ということがわかったとき、安心できたのでした…。
それまでのわたしは、人間関係はじめ自分の前におとずれたテーマはどれも自分流に取り組み、時に解決し、それによって新たな局面がおとずれて、成長によって自分に自信をつけていくものだ…と考えで生きていました。
結婚して、仕事を辞め、子育て期に入り、そこで初めて、わたしは感じたことのなかった身体感覚を自覚するようになりました。大勢の人がいる街中で例えられないザワザワした身体感覚、自分の中に中心軸がないような常に落ち着かない、心ここにあらずな居心地の悪い感覚でした。その頃のわたしは、自信をもっていたはずの自分に、初めて戸惑いを感じていたのでしょう。
何が正解で、何が間違いかで生きてきた傾向のあるわたしは、すぐに成果がでない、解決できないという、わたしにとって難解な“子育て“に、自分のコントロールが及ばないことで戸惑いを、それも初めてに近いくらいな感触を感じていたのです。それまでのわたしの人生はおおかた、自分のコントロールが効いていたのです。(正確には、何でも思いの通り状態)
“子育て”は、理由なく場所関係なく容赦なくぐずるし泣く、何か施しをかけると泣き止むことはあってもだいたい通用しないことが大半。風邪をひけば夜通し看病する…寝て欲しい時に絶対に寝ずに遊びにずーっとつき合う…こうしてあげたい~と思っても全く別の方向へ向かうし、要望しだす…成長すればするだけ、それに応じ「ああ、やんなっちゃうな~」ということに都度、直面し、終わりのない~成果がわからない~行き詰まりを常に感じていたのだと思います。唯一、子どもの寝顔を見てやっと自分の正気さを取り戻す……そんな日々の繰り返しでいつしか、わたしが何を思っていて、何を感じているさえ、後回しになってしまっていたのでしょう。
親になればだれでも経験する当然なのでしょうが、わたしは、それをあきらめて受け入れる(聖なる受け入れ)という心の姿勢より、何か、いつも自分が間違っているのではないか…という思いが前提にあったのだと思います。子どものあらゆるすべての出来事、成長経過などを通じて、それらはすべてわたしの采配次第!だからわたしがしっかりしなきゃ!しっかりしつけをしなければ!という思いが心の指針に成り代わってしまっていたのでしょう。
これでは<楽しく気楽に過ごす今>というより<緊張感をもって過ごす今>の連続で、いつしかザワザワする、着地点のない居心地の悪い状態なわたし…に決まっています。笑
そんなさなかだからでしょう…なぜか無性に「自分には瞑想が必要だ」という直感といえるほどの思いが芽生えました。 偶然にも友人の話しから、2005年香咲弥須子さんの誘導瞑想の会に参加しました。そこで心が鎮まる感覚の心地よさを初めて体験したのでした。
心の仕組み、心の向け方、人間関係性についてなどのお話しが、その時のわたしの心模様を明確に見直す機会の到来でもありました。それが「奇跡のコース」との出会いとなりました。
<すべては、わたしに原因がある>…もし、わたし以外の何か他に原因がある(過去の何かとか、先祖の何かとか、なにかをもっていないからとか)という教えだったら、わたしは学んでいなかったでしょう。
それ以来、香咲弥須子さんのセミナー等オーガナイズを長年続けながら『気づき』と気づきがもたらす『ゆるし』というとても優しい導きの連続が、わたしは“本当の自分というもの”を改めて深く知り、取り戻し、またその道すがら、不思議にもそれを通じて周囲の人たちと喜びを分かち合える繋がりが経験できるという嬉しい発見の連続です…それは今なお進行中。
…人生は、自分で構築していけるものではありませんでした、むしろ思い通りにならないということを知ったことで、委ねて任せていられることで得られる喜びと発見が、実は日常に溢れていたのだ!ということに気づきました。
そして
奇跡のコースは、自分が特別な人になるための学びではありません、むしろ、特別な人になる必要はなかった…と気づく学びだなと、わたしは実感しています。だからここに、安心があるのですね。
出会う人たちと、心から喜び合える…たたえ合える…そんな経験を歩んでいきたい…そう願っています。